詰工房ができたとき


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  1. 詰工房の始まりとは

    東京詰将棋工房は、1988年に開催された「詰朗会B組」という謎の会合に端を発する、とされています(「謎」というのは、私(金子)がそこに参加していなかったことと、会合レポートのたぐいがどこにも出ていないことによります)。当時、国分寺市の森田銀杏さんを世話役として、研究目的の「詰将棋研究会」(不定期開催)と交流目的の「詰朗会(つめろうかい)」(年に3回開催)という会合が開催されていました。その中の若手が、単にあつまっただけだともいわれるのが、詰朗会B組です。相馬康幸さん、田島秀男さんといったビッグネームが入っていたようですが、ここで摩利支天という人物を抜きに語る訳にはいきません。

  2. 摩利支天という人

    摩利支天(まりしてん)−−もちろん氏のペンネームですが、本名よりも明らかに知られているこちらを使うことにします。摩利支天さんは北海道の出身ですが、当時岐阜県にあった詰将棋パラダイス編集部に移り住み(良く言えば従業員、悪く言えば居候)、詰パラの編集作業をしながら誌面でその偉大(?)な文才を発揮する一方、関西の若手による詰将棋サークルの旗揚げを画策し、現在の「ACT」のもとを作りました。
    その後、彼は千葉に移り住みますが、そこでも彼は若手サークルの旗揚げを画策しました。詰朗会B組は、そんな彼の活動の手始めだったようです。

  3. 場所の変遷

    摩利支天さんの会合立ち上げにかけるパワーは相当なものです。東京近郊在住の詰将棋ファンたちに、相当量の葉書をバラまきました。会場準備なども、1人でこなしたようです。第1回会合は1989年の10月に、松戸市で開催されたのです。会合の名称は、西の本家に名を借りて「ACT II」(あくと・つー)でした。私(金子)は、摩利支天さんが岐阜にいる時からの知り合いだったので、第1回から参加しました。
    最初から5回は、摩利支天さんの地元の松戸で開催されましたが、その後、会場費の問題や交通の便などから、会場を飯田橋に移しました。この飯田橋の会場を紹介したのが金子でしたので、なりゆきから私が場所取り役を引き受けました(そのうち、なりゆきから、私が世話役になり、幹事になり、いつのまにか「事務局長」とか呼ばれるようになってしまいましたが)。
    飯田橋の会場にも問題がありました。会場費はタダだったのですが、予約が2ヶ月前からでないとできなかったことです。2ヶ月前にならないと日付が決まらないのでは、月刊誌の詰将棋パラダイスに会合の予定を掲載できなくなってしまいます。
    そこで、最終的に落ち着いたのが、現在のきゅりあんです。きゅりあんは、会場費がかさむ(といっても、比較的安い部屋を区民割引で使っていますが)のですが、6ヶ月前から予約ができるのがメリットです。もちろん、幹事役の金子の荷物運びの手間を考えた上であることは、いうまでもありません(^_-)。
    ちなみに開催場所は、その後2回ばかり船橋で出張会合、100回記念会は府中で開催しました。

  4. 詰工房の名前は?

    大井町のきゅりあんに移っても、しばらくは「ACT II」のままでした。名前を決めようという話は、それまでにもあったのですが、具体的に困ることもなかったので、そのまま放置しておいたのです。名前を考えなければいけないという動きがでたのは、詰将棋パラダイスの当時の編集長である柳原裕司さんから「ACTと誤植するおそれがあるので、別の名前にしてくれないか」という話があったことがきっかけです。その話を聞いた例会の後の喫茶店で、何気ない私の一言から「東京詰将棋工房」という名前が決まったのです。当時、某所でやっていた「夢工房」というイベントとのシャレでした。

  5. 詰朗会はどーした?

    その後しばらくして、詰朗会が第50回を迎えたとき、前出の森田さんから幹事をバトンタッチしたいという話が出ました。その場のなりゆきから(なりゆきばっかりだな〜)、金子が幹事を引き受けることになりました。このため、大井町の月例会は4回に1回は詰朗会ということになりました。
    詰朗会は、課題作品を募って、優秀作を近代将棋誌に発表していました。しかし、課題作品というのは実はなかなかあつまらないもので、4回目くらいから有耶無耶になってしまいました(←「しまいました」じゃねーだろ!)。特に、その時開催された全日本詰将棋連盟全国大会との日程の関係で開催を延期してからは、詰朗会自体も有耶無耶になってしまいました(←「しまいました」じゃねーだろ!)。しかし、誰でも気軽に参加できるという詰朗会の趣旨は、現在の詰工房に引き継がれています(←いいわけ)。


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